「富士正晴」氏 人物像

2016年9月26日

  富士正晴とは

 

                               fuji.jpg  (1913~1987) 

 

 

 

 作家であり詩人でもあった富士正晴(ふじ まさはる/1913~1987)は本名を冨士正明と言い、

三好市山城町(当時・三好郡山城谷村)信正の冨士憲夫・晴子の長男として大正2年10月30日に生まれました。

本姓の「冨士」の文字「冨」は“ウ冠”ではなく“ワ冠”です。また、名前の「正明」は、誕生の届け出の時に

「正明」と提出しましたが(役場の書類記入は手書きであったので)「正晴」と登録されてしまいました。

後年、こだわりを持っていた父の憲夫が手続きをとって「正明」と訂正されたので、戸籍上の本名は「正明」ですが、

富士本人は長年使用した名前であったから、ペンネームとか本名とかを意識していたわけではなかったようです。


 4歳の時に、当時日本の植民地であった朝鮮に一家で移住、大正10年・8歳の時に帰国して神戸に住みます。

県立神戸第三中学校(現・長田高校)を経て17歳の時、京都の第三高等学校(現・京都大学)理科に進みましたが病気により入院、その時に文学に目覚め、奈良に住む志賀直哉を訪問して紹介された詩人の竹内勝太郎を知り、歳下の友人・野間宏や桑原静雄らと交流します。その間、休学や文科に転科するなどしましたが、文芸同人雑誌『三人』を発行しました。

 

 昭和10年に三高を中退した後、大阪府庁、出版社の弘文堂を経て七丈書院では三島由紀夫のデビュー作『花かざりの森』を手がけています。


 昭和19年には召集令状が来て、徳島に帰り池田で徴兵検査を受けますが丙種合格でした。

平時であれば兵士にならない「丙種」も戦況不利の折から、徳島の部隊に二等兵として入隊、以後陸軍の兵卒として大陸を転戦して終戦の翌年5月に復員しました。


 昭和22年10月に同人誌『VIKING』を島尾敏夫・林富士馬・井口浩らと創刊、高橋和巳、庄野潤三、津本陽、久坂葉子などが同人として参加した。

昭和24年3月結婚、新制中学校の国語科講師となりましたが3か月で退職、昭和26年8月から毎日新聞大阪本社の資料部図書室に2年間勤めた後は給与生活から離れ、文筆業の道を進むことになります。 

                     

                 SANNIN表紙.jpg  『三人』              VIKING表紙2.jpg   『VIKING』           

                                    

   

 主な作品に芥川賞候補となった『競輪』『敗走』『徴用老人列伝』、直木賞候補の『帝国軍隊に於ける学習・序』があるほか、

『贋・久坂葉子伝』(富士の最初の単行本)、『たんぽぽの歌』(改題「豪姫」)は平成4年に勅使河原宏監督により宮沢りえ主演で映画化され『桂春団治』(毎日出版文化賞)など沢山の著作があります。小説・詩・エッセイなど多岐にわたる作品は没後の昭和63年に岩波書店から『富士正晴作品集』(全5巻)として刊行されました。

 

 

    katura.jpg 『桂春団治』


 昭和26年以来、大阪府茨木市に住み、その住まいは竹林に囲まれたところで、あまり外出をしなかったことからも、

親しみを込めて“竹林の仙人(あるいは隠者)”と呼ばれました。茨木市はその縁から平成4年に富士正晴記念館を開館しています。


 富士正晴は「著述の人」でしたが座談も巧みで、本の装丁も手がけるなどし、奔放自在、ユーモラスな彩墨画や木版画に書も巧みでした。芥川賞も直木賞もノミネートはされたが受賞には至りませんでした。多才な人であった故にのことでしょうか・・・。

ただ、昭和62年5月に関西大賞大詩仙賞といういかにも富士に相応しい賞を受賞しています。

その2か月後の昭和62年7月15日、急性心不全のため73歳でその一生を終えています。

                          kaiga1.jpg    ← 富士正晴の画 →     kaiga2.jpg                              


 作家としての郷里・徳島との縁では“詩”ではなく“詞”で、「徳島県民の歌」を昭和46年7月に作詞しています(作曲は徳島県出身の三木稔)。

また富士と三木のコンビで『阿波の子タヌキ譚』を四国放送が制作、昭和46年度芸術祭のラジオドラマ部門・音楽の部で優秀賞を受賞しました。

そして昭和47年に統合された新しい山城中学校の校歌を昭和49年に作詞(作曲は近藤哲司郎)しています。
 平成9年10月、山城町は顕彰会を立ち上げて信正小入道に「富士正晴この地に生誕す」と銘した生誕碑を建立しました。

また顕彰事業の一環として、富士の作品(彩墨画と軸物)を購入したほか展示会、講演会、映画鑑賞会も開催しました。

平成12年11月には「富士正晴全国同人雑誌賞」の企画発表を行ない、翌13年から3年毎に開催しています。

平成18年3月に山城町は他5町村と合併、三好市となりましたが市はこの事業を継承し、平成22年からは「全国高等学校文芸誌賞」を毎年開催するようになりました。

なお平成15年に生誕90年を記念して旧大野中学校(平成12年4月山城中学校に統合)校舎内に「富士正晴記念室」を開設したが、平成25年10月に生誕100年を記念して山城町公民館内に移転・開設しました。

 

               


 富士正晴の生誕地は三好市山城町の信正(のぶまさ)という吉野川の支流・伊予川の南側山地の急勾配の山道を登っていった在所・小入道(こにゅうどう)という場所にあります。

富士が誕生した頃の住所は「三好郡山城谷村信正名(のぶまさみょう)二百拾八番地」でした。

地名の後に付く「名(みょう)」は“地域” “地区”を表す古い用語で、山城谷村が三名村と合併する時まで使用されていました。

 平成9年10月に建立された生誕碑は路傍の展望の良い所にありますが、富士家の屋敷はそこより少し離れた南側の畑地を石垣2つ分を上った所にありました。

現在は樹木数本が植えられた広い畑状の空き地になっています。
 富士家の墓地は屋敷跡東端から続く細い路を少し登っていった山腹の樹木の影になった所にあります。

先祖の墓が数基と母親・晴子の建立した立派な「冨士家之墓」碑があり、その右手に御影石の小ぶりな碑が2基並んで設けられており、戒名、生年、没年、詩文が刻まれた富士正晴夫妻の墓碑があります。縁者以外は訪れる人もいない静かな眠れる地です。

 

                                                sekihi石碑3.jpg (生誕碑)

                  

 

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